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これからの予定

オンライン対話塾 (ZOOM使用)
日程:未定
参加費:3,000円
事前予約(事前振込)制

お問い合わせ・お申し込み先:泉谷セミナー事務局 info@izumiya-seminar.com

これまでの活動

2022年8月2日(火)19:30-21:00
オンライン開催

5th Season

第6回対話塾(オンラインにて開催)
2020年6月26日(金)

第5回対話塾(オンラインにて開催)

2020年5月29日(金)*満席

第4回対話塾(オンラインにて開催)
2020年5月1日(金)

第3回対話塾
2019年1月24日(金)

第2回対話塾&忘年会
2019年12月20日(金)

第1回対話塾
2019年11月29日(金)



4th Season
第7回対話塾
2013年9月13日(金)
テーマ:その人を知るために

今回は参加者が自由にプレゼンテーターに質問をして、その人の人となりを引き出す、という試みをします。泉谷先生の提唱する対話の大前提である「相手を知りたい」という気持ちでどう質問するかということを実践します。

第6回対話塾
2013年7月6日(土)
テーマ:真面目で一生懸命でばからしい、愛すべき仕事と私

 法人向けに教育研修を提供する会社に勤務するプレゼンテーター。
 中高生時代に生物のしくみに魅かれたことから、心のしくみなどにも興味が向かい、教育方面で探して現在の会社に入社した。しかし次第に、望んでもいない研修を受けさせられる社員たちや「約束を守りましょう」というような初歩的な研修が必要な新社会人たちを目の当たりにし、何か間違っている、何か他にできることがあるのではないかという疑問を抱くようになった。
 曇りのない目で世の中をもっとよく見てみたい、と休職を決意。いろんな場に積極的に参加。そして、人は自ら本当に「楽しい」と思って選んだものならば長く続けられるものだと再認識し、やはり企業研修といった形では生きた経験を提供するのは難しいのではないかと感じた。
 そんな折、泉谷先生の『反教育論』を読んで、親が子供の教育のために色々用意するよりも、親自身が楽しんで生きている姿を見せるのが一番インパクトがある、というところに共感し、今後の自分の方向性について見つめ直したいと思っているところだという。

 このようなプレゼンテーションの後、このプレゼンテーターの問題意識に対し、果たしてどこから手をつけて行くべきかについて、参加者で話し合った。また、母親が一人で子供を育てる実情になっている問題が取り上げられ、「社会が子供を育てる」という体制に変わらない限り、現代の諸問題の始まりの一つである母子密着は解消されないのではないかという意見が出た。また、子育ての助け合い等の話から、「うち」の人には手を貸しても、「そと」の人には傍若無人な日本人のムラ的体質の問題性が話された。さらに、「夫婦幻想」や「家族幻想」の問題や「自他の区別」のテーマに発展し、「血のつながり」を特別視してしまうがゆえに個が尊重されないことになってしまっていることは問題ではないかという話になった。
 また、企業研修というものについては、「企業内で生き抜くしたたかな知恵を与えることができる」という意見が出る一方で、強い主体を持った人間でなければそのしたたかさは持ちえないし、「主体性を教育することはできない」という意見も出された。
 家族や企業などの「絆」という幻想を維持するために、日本人が膨大なエネルギーを費やしてしまっていることは勿体ないことだ。自分の目で現実を見、自分で考え、物事を鵜呑みにせずに疑うべきは疑い、そして創造し、理不尽なものにきちんと反発できるような人間が増えて、この社会の思考停止状態を打開することが望まれるというところに意見が一致し、散会となった。

第5回対話塾
2013年6月8日(土)
テーマ:私を在らしめている勢い ~こころとからだに耳を澄まして~

 まずはじめに、漫画家のプレゼンテーターから、自分の出自を短くマンガにまとめたものが配られた。
 そこには、関西からサハリンへ「駆け落ち」したという祖父母のエピソードが描かれており、それはプレゼンターがのちに「世間」という共同体と個人の関係を考える原点になったという。しかし、そこまでして一緒になったにもかかわらず、その後、宗教家になり家計を顧みなかった祖父に愛想を尽かした祖母を見て、プレゼンテーターは「愛」っていったい何なのだろうと考えるようになったという。
 シュタイナー教育の音楽療法で用いられる「ライアー」という小型ハープを持参したプレゼンターが、次に小曲を演奏。各種ライアーの説明も成された。ライアーの演奏においては、音の源、音の背景にあるものを感じながら、音の消えゆくところまで耳を澄まして弾くことが大切であると語られた。
 次に、元特攻兵士の父が感情を爆発させがちな人で、その影響で「他人の感情に責任を感じてしまう」という自分の傾向が作られたこと、浄土真宗の影響の強い石川県出身の母は「世間」を大切にする人で、それに反発を感じながら育ったことが語られ、それゆえプレゼンターは「自己実現したい」と思い「自分の好きな方向へ行けば良いはず」と美術の道に進んだものの、その後の社会生活の中で、知らず知らず「世間」的なものに絡めとられてしまう。自分を掘り下げないうちに漫画家としての仕事に入ったためか、情熱を失い、すっかり漫画を描くことが楽しくなくなって挫折。きっとそれは、「自己実現」のつもりで「世間実現」にすり替わってしまっていたのだろうと自覚。今でも、いろいろと好きなものをやろうとして集団に入っていくと、そこにはいつも「世間」が待ち受けているのだった。しかしプレゼンターにとって、そこからの突破口は、阿部謹也先生の作った「世間学会」への参加であった。

 このプレゼンテーションを受けてのディスカッションでは、個人主義の西洋から輸入される思想や学説は、個人主義という1人称を背景に生まれ成り立っているにもかかわらず、我が国に移植されるや否や、0人称的なものに変質してしまいがちであること。そして厄介なことに、西洋人が1人称の先に憧れる0人称が、日本の「世間」の0人称的在り方と同じように錯覚され、西洋人も日本人もこのままで良いのだと考え違いをしてしまうということがある。よって、泉谷が『「私」を生きるための言葉』で述べたように、「世間」的な0人称を「未熟な0人称」、1人称の先に到達される「無私」的な0人称を「超越的0人称」と明確に区別すべきではないかという意見や、「世間」に対して我々の抱く「怖れ」の中心は「村八分」にあうことだと考えられるが、「世間」という「ムラ」に属さないことによって、決して村八分にあうことがないので、「怖れ」からも自由になれるのではないかといった意見が述べられた。

第4回対話塾
2013年5月11日(土)
テーマ:自分を愛するということ、自分を信じるということ。

 ある時子宮体癌が見つかり、それを機に現代医学の問題点に直面したプレゼンター。ひたすら手術を受けることを勧めるだけで、自身の病状について納得のいく説明を受けたいと望んでも、「手術を受けない、抗がん剤治療を受けないなんて言う人は、ドロップアウトしますよ!」と脅しのような文句を浴びせられてしまう医療界の現実。そのような中でも自分の「心」は、納得のいかない治療を受け入れることについて、頑として「イヤ!」と言う。しかし、その一方で「頭」は癌=死というイメージで日々自分を不安に陥れた。
 このように「心」の声と「頭」の不安に揺れる日々の中、ある日の通勤途中、彼女が目にする女性たちが老いも若きも、押し並べてキラキラと目に映った。この説明のしようのない不思議な光景に、彼女は、女性ということの素晴らしさを思い知らされる。そうだ、子宮がんという形をとって自分の身体は、自分が女性であることにもう一度思いを向けさせたのだ。そして、とめどなく涙が流れた。自分の子宮を、まるで赤ん坊を抱くように大切に抱きかかえ、見つめた。このことは、「病は身体からの大切なメッセージであり、それを受け取ることが本当の解決なのだ」ということを増々強く再確認させられた貴重な経験だった。自分の「頭」は、現代医学のように癌を恐ろしい死の恐怖で捉え、駆逐すべき悪と捉えるけれども、自分の「心」は「身体」を無条件に愛していたのだ。「自分を愛すること」とは、「頭」がこの経験で気付くよりずっと前から、そもそも「心」が「身体」に対して行っていたのだ。ただ愚かな「頭」がそれを見ず、認めず、知らなかっただけだったのだ。
 さらに腎機能障害にも見舞われた彼女は、やはり現代医学のクスリ一辺倒の治療法に悩むことになった。しかしここでもまた、ある日自分の「心=身体」が「私を信じて!」と告げてきたという経験をする。これを通して、「信じる」ということも、「愛すること」と同じように、既に「心」と「身体」の間で自然に行なわれていたことだったのだ。それにもかかわらず、「頭」だけがそれを妨げていたのだった。
 つまり、「自分を愛するということ」も「自分を信じるということ」も、そのような言葉など無用であるかのように、はじめから自ずと自分の「心」と「身体」が行っていたことであり、既にそのようにして「在る」ものだった。虚心坦懐に、ただそれを知れば良かったことだったのだ。
 彼女は、これらの経験から数年以上を経て現在、少なくとも現代医学が予見したような悪化の兆候なしに生き生きと日々を送っている。

 この貴重な経験談に引き続き、本当に大切なことは「頭」の論理や証拠付けなどを不連続に飛び越えて、「心=身体」側から告げられるものではないかということや、人々が常識と思い込んでいたり正しいと思い込んでいる医学的ドグマの偏りや偏狭さについて、参加者それぞれの意見が熱く交された。

第3回対話塾
2013年4月6日(土)
テーマ:わたしの居場所はどこにある? ~わたしを縛るものは何か?~

 現在ブックデザイナーとして活躍中のプレゼンターは、地方の衆人環視的な精神風土の中に生まれ、「人を蹴落としてでも一番を取れ!」「儲かるから医者になれ!」などと世俗的成功を求める母の下で育った。どうにか勉強の重圧から逃れるために美大のグラフィックデザイン科に進学。しかし、正解のないデザインの世界で、一体どうしたら良いのかわからず苦しむ日々を過ごしていた。
 全ての他人を敵と捉え、壁を作って生きてきた自分。他人に過度に厳しかったり、同居する姑を疎ましくさえ思っていた偏狭で堅い自分だったが、これが約1年前に劇的に、何かの呪いが解けるように変わることが出来た。2年前の東日本大震災と原発事故を機に、「自分の頭で考えていたつもりが、他人の考えを持ってきていたに過ぎなかった」ことに気付き始める。そして何人かのパフォーマンスアーティストのパフォーマンスと触れる中で、自分の中にあった既成概念を打ち砕かれ、真に「自分で」考えなければならないことが分かる。そして気付いたのは、自分を縛っていたものは、他ならぬ自分で作り上げてしまっていた呪縛だったということだった。
 自分の居場所とは、自分が居て良いのだと許さなければ存在しないものではないか。「相手を傷付けなければ良い」「人を傷付けてはならない」という刷り込みは本当に正しいものなのか? 「敵を作らないように」と気を遣い、相手に合わせて生きてきた自分だったが、「敵」ってそもそも何だったのか?

 赤裸々にプレゼンターが語ったこの変化と新たな問いの数々に対し、世間論を論じた故・阿部謹也氏の自伝の話、内と外、ムラ社会というものについての意見が様々に交わされた。それを受けてプレゼンテーターは、違う文化圏の人々と自分を照らし合わせることがムラ的呪縛から解放される上で重要だったことを話す。show&tellが当たり前のこととして育って来る欧米人、「他人の文化を羨ましいと思わない」「生きている人の言葉以外は信じない」といった基本性質を持つアマゾンの少数民族ピダハン。今は、「敵」がいるという感覚は消え、むしろ違うことを考え感じている他者への強い関心を抱く自分になっているという。
 ある出席者からは、アウトサイダーと自分を位置付けて、社会の中に潜む諸問題に日和見的に距離を置いているような人間は、どうしても人間の尊厳や愛に対しての「敵」であると思えてならないという意見も出された。そこから、他者との居心地の悪い関係や意見の衝突を避けないあり方、「対話」というものについても意見が交わされ、個と個の間に起こる化学反応の意義にまで話は及んだ。

第2回対話塾
2013年3月2日(土)
テーマ:オペラ歌手が熊に出会うまで

 オペラ歌手やラジオパーソナリティとして活躍中のプレゼンターが、内面的苦悩から脱出を模索していた頃に、ふと「自然」に呼ばれ、北軽井沢を訪れるようになり、そこで野性に開かれていったいきさつを、見事な語り口でとても面白く語ってくれました(あまりに面白く衝撃的な彼の話の勘所は、自身によってのちに活字にされる予定なので、このサマリーではあえて割愛します)。
 彼が森の中の川辺で野性に覚醒した時に、「動物であること」と「人間であること」を両端とする「メーター」の存在を内側に感じ、どうも「歌う」という行為はそのちょうど真ん中のあたりで行うものらしいと認識した話は、参加者たちにも強く響き、熱い共感が寄せられました。彼は、この内的経験を経たのち、出会う相手がこの「メーター」のどのあたりで生きている人間なのかの見分けがはっきりできる感覚が生まれたと語ります。そして彼はこの「経験」後、それまで属していた音楽アカデミズムや既存の音楽界のしがらみを全く新たな距離感で眺めるようになったと言います。

 そのような「内なる野性」に覚醒した自分が「野性を封じ込めた状態の人間」といかにコミュニケーションをとることができるのか、つまり「対話」の準備のない相手といかにやり取りするのか、といったテーマについても様々な意見がやり取りされました。
 北軽井沢の大自然に包まれて啓かれていった彼の軽妙洒脱な話は、場に清涼な気を生み出し、禊(みそぎ)でも行なったかのような清々しい後味を残してくれました。

第1回対話塾
2013年2月2日(土)
テーマ:批評とは何か ―20世紀音楽を通して考える―

 様々な批判にさらされている人たちに向けて、ということで、「批評」についてのプレゼンテーションが行われました。
 菊地成孔氏の『東京大学のアルバート・アイラー』という本の中で「批評とは歴史観の提示である」という定義が成されていることの意義を、「つまりは、相手の批評の言葉の表面よりも、その背後にある歴史観を見ることによって、むやみに傷つかずとも済むのではないか」ということが述べられました。次に、20世紀の偉大な指揮者であると同時に「ウエストサイド・ストーリー」などでも知られる作曲家レナード・バーンスタインのハーバード大での名講義『答えのない質問』から。20世紀音楽の方向性が、シェーンベルクの12音音楽のような無調音楽に向かう趨勢の中で、バーンスタインはストラヴィンスキーのような「盗用」「借用」を基にした作曲の正統性を強調し、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のメインモチーフが、ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」のメロディから「借用」されたものであることを論じた。これは言外に、現代アメリカ版「ロメオとジュリエット」とも呼ばれているバースタイン自身の作品「ウエストサイド・ストーリー」の出だしのモチーフが同様の音型を用いていることの正統性を主張したものではないのか。つまり、彼が無調主義者たちから受けていた批判への反批評だったのではないか、というプレゼンテーターの考えが述べられました。
 そのほかにも、夏目房之介氏の手塚マンガに主軸を置くマンガ歴史観の話や、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の裏に流れるアイリッシュの文化の話なども語られました。

 これに対し、「歴史観」に限定せずとも「価値観」「人生観」「人間観」に拡大して考えてみる方が、より批判に傷つかないのではないか。「批判」と「批評」を分けて定義付けて論じた方が良いのではないか。本来の「批評」とは、「批判」とは違って、愛のある「対話」のようなものなのではないか。人は言葉によって傷つくものであり、どうしても無用に言葉によって傷つけられた場合に、その論理をしのぐ論理でもって戦わざるを得ないこともある。等々の熱い意見が飛び交いました。



3rd Season

第3回対話塾
2012年9月1日(土)

今回は、「“学ぶ”ということと“教える”ということについて考えたいが、教えたがりの人の押しつけにはうんざりさせられる」という話から始まり、コーチングを行なった経験のある方の発言や、「教えずに教える」ということを目標にできればと目指しているという方、面白いと思えるものを提供できる魅力的な人からだけ「学ぶ」ことができたという意見、「教える」際には生徒が何を知りたいのか、何ができるようになりたいのかをよく聞いてから「教える」ようにしているという方の発言がありました。そこで、動物行動学者の日髙敏隆氏の「20世紀の人たちは大きな勘違いしてしまった。それは、『人間が育っていくためには学習が大切だ』というのを、『人間を育てるには教育が必要だ』と思い込んでしまったことだ」という言葉が紹介され、「教える」ということは余計なことで、「学ぶ」側の人間も「教わる」という姿勢でなく「盗む」という姿勢が大切ではないかという意見が述べられました。
しかし現代は、効率よく学びたいという「教わりたがり」の人が少なくない状況になっており、そのような受動性の問題をどうしたら良いだろうかという話になり、味気ない「基礎教育」などによって人が本来持っているはずの好奇心を台無しにしてしまったり、幼少時から自我の発現の芽を摘まれてしまうような親の過干渉等が問題ではないかという話に発展しました。
これに対して、人間の自我はそんなに簡単に摘まれてしまう弱いものなのか? このような時代の中でも、それなりに人間はやっていけるのではないか? 果たしてそんなに若い世代は古い世代に比べて劣化したと言えるのか? という疑問も出されましたが、現代の人間が作っている社会や組織の状況は、どうも江戸幕府末期の機能不全状態にそっくりなのではないかという意見も出ました。
しかしながら、この問題を解消するために「昔に帰る」「自然に帰る」ことなどできるわけもないのであって、いかにしてこの状況の中で人間の「野性的自我」を潰さないことが出来るかということを考えていくかということが大切ではないか、人間や社会がそのように劣化していくことに対してそれぞれ何ができるかを考えなければならないのではないか、という意見で終わりました。

第2回対話塾
2012年8月4日(土)
(3rd Seasonの第2回対話塾は、都合により急遽開催中止となりました。
参加をご希望されていた方々にはご不便をお掛けし申し訳ございませんでした。)

第1回対話塾
2012年7月7日(土)

今回は、仙台の「プレ対話塾」に参加してきた方の報告から始まりましたが、そこで「対話は対等な関係でなければ成り立たない」という話題が出ていたことを受け、「対話はどのような条件で成立しうるか?」という問題について、様々な意見が出されました。また、対話は「聴く」ことが不可欠であるけれども、それにとどまらず、対話によって化学反応の如き創造的なものが生まれるためにどうしたら良いだろうかという問題提起も行われ、ただ何らかの情報や知識を知りたくて行うものは「対話」とは言えないのではないか、「対話」とは単に自らを開くのみでは成立せず、相手への強い関心が必要なものであり、“respect each other”が必要な条件ではないかという意見も出されました。
そして、「恋愛」というものがその要件を強烈に備えたものではないかという流れになり、「恋愛とは何であるか」という話題で、参加者がそれぞれ赤裸々に自らの恋愛観を語り、七夕の夜らしい盛り上がりを見せました。



2nd Season

第6回対話塾
2012年6月2日(土)

第6回は、「切羽詰まった時に、どのようにして対処しているか?」という問いかけから始まり、参加者各人の実際の対処法が述べられ、そこから他人に話を聞いてもらうことによる対処が「依存」になる場合とならない場合はどのように違うのか、というテーマに移り変わり、依存は受ける側も「共依存フック」とでも言うべきものを出してしまっているものだという話が出て、依存や支配にならない関係でなければ「対話」は成立しえない。依存や支配は「欲望」によるものであること。そして「孤独」を前提にしたところにしか引力としての「愛」は発動しないし、同質性を前提とする「ムラ」的関係ではそもそも話すことなどあろうはずもなく、「対話」は行われないだろうということ。また、欲望と愛の関係については、よく宗教などで説かれる「欲望を滅却した愛」の教えは、空海の言う「遮情」に相当するもので「小欲なしの大欲」という偽善ではないだろうかという話になりました。
後半は、3.11によって「人々の絆が強まった」ということを肯定的に見る意見と、逆に、それは家族などを中心とする古き「ムラ的」引力の復活なのではないかという意見が出ました。そこから、家族幻想の問題に話は発展し、真の「愛」に目覚めたのならば「家族」にだけその意識が向くような限定的なものにはならないだろうという意見も出て、最後に、人間は大きな災害によって何かが変わったように見えても、それはそもそも潜んでいた何かが顕在化したに過ぎないのかも知れないという意見が賛同を得て、終わりました。

第5回対話塾
2012年5月12日(土)

第5回は、「頭でわかっていること”と”腑に落ちる”ということの違い」について問題提起がなされ、”腑に落ちる”にも程度の違うものがあるという意見や、本来は”腑に落ちる”とは「心=身体」で起こることを指すものだがこれは男性に多い現象で、女性の場合はむしろ、まず「心=身体」で直観的に受け取って、後になって「頭」の認識がそれに追い付いた時に「頭」の方で”腑に落ちた”と感じることが多い、という性差の問題が指摘されました。
次に、「一生に亘ってやり続けたり、何度も味わい直していきたいものはどんなものか?」という話題になり、男性たちが釣りや山登り、楽器演奏などを挙げたのに対して、女性たちは愛読書や好きな音楽を挙げることが多く、ここから再び性差の話になり、「釣りを愛好する男性は基本的に仕掛けに凝ったりしながら大自然に対する「孤独な闘い」になりやすいが、女性の釣り愛好家はそういうこだわりを示さず、群れることを楽しむ傾向にある」という話や、「男性はどうしても「頭」優位になりがちだが、女性は月経などによって”内なる自然”を内蔵しているので、男性ほどわざわざ自然を求める行動に出ないのではないか」という意見が出ました。そして、整体の見地から「男性は骨盤が固い人が多く、女性は柔らかい人が多いようだ。また、骨盤の固い人は性格も硬いことが多い」と、骨盤の話にまで発展しました。

第4回対話塾
2012年4月7日(土)

第4回は、「家族という関係性は、他者との関係性とどう違うのだろう?」という問題提起に始まり、「どうしても親子間の関係は他人と同じような距離感でとらえることは難しい。それはそれで良いところもあるのではないか」という意見が出されましたが、相手を思い通りにしようとする欲望の混入したメッセージは「親子だから」として許容されてはならないだろうという意見や、家族という最小単位のムラでは「同じはずだ」という家族幻想が様々な悲劇を生む温床になっている、といった意見が出され、互いが独立した「個」であることを前提としないような家族幻想は有害であり、独立性を認識した上で愛による関係性が構築されることが望ましいという意見に集約されました。
後半は、武道において言われる「勁(けい)」という概念についての話題が出され、これが如何に様々な現象に敷衍できるものかという話になり、例えば釣り、ピアノ演奏、料理、指圧、整体、ピラティス等の話に発展しました。いずれも、力づくではない「対象への愛」がその神髄として共通しており、「対象をコントロールしてやろう」という邪念に囚われた途端、「勁」は「勁」ならざるものに堕してしまうのではないか、という認識に到り、たとえ「身体」からのアプローチであっても、それは分かちがたく「心」の問題に直結しているのだということを再確認して終わりました。

第3回対話塾
2012年3月3日(土)

第3回では、「今を生きる」にはどうしたらよいだろうかという問いに始まりました。ともすると人は、先の不安に支配されてしまったり、過去に引きずられてしまう。しかし、未来の不安、過去の後悔などは、いずれも「頭」のシミュレーション機能によって生み出されるものであるに過ぎず、「心=身体」はそもそも「今」に焦点が当たっているものである。よって真に生きるとは、「今」以外にはありえない。だから、「今を生きる」という言い方自体、一種の同義反復のようなものではないだろうか、という指摘がなされました。後半は、この厄介な「頭」というものの中には「黒い人(自己否定や自己規制を行う部分)」と「白い人(「心=身体」を尊重し代弁する部分)」の二つがあるのではないかという図式が示され、「黒い人」をどう追い出すかという内的作業の様子や工夫などについて参加者それぞれの経験が語られました。

第2回対話塾
2012年2月4日(土)

第2回は、1人称(主体性)に目覚めた自分が、0人称の人々に満ちた職場や家族のもとに戻った際に、いわば「スパイ」のごとく適応的な自分を演じる大変さについてどう考えるか、あるいは、そこで揺さぶられたり傷つけられたりしないためにどのように対処しているのか、という問いかけから始まりました。これを考える上で、人々を1人称性~0人称性を横軸に、intelligenceの高低を縦軸にし、A,B,C,D層の4グループに分ける図式が提示され、圧倒的多数を構成するB層(0人称性 higher - intelligence lower)とそれに対しオピニオンリーダー的役割を果たしているA層(0人称性 higher - intelligence higher)というマジョリティグループと、C層(1人称性 higher - intelligence higher)の間に起こる諸問題として話し合われました。C層の人々が人間にとって大切な在り方に目覚めているとしても、オピニオンリーダーとして世論や流行を左右しているA層の人間がこれに興味を示してB層に対するマーケティングを行わない限り、C層の思想はマイノリティとして埋没してしまうという現実がある。かといってC層が、よくあるように超俗の仙人のごとく孤高に不遇をかこつのも、これは一種の敗北であるだろう。ならばC層は、どうやってその思想をA層B層に伝えることができるだろうか? この問いかけに対し、C層がその思想や自らの在り方を徹底して掘り下げ、地下水脈に到達することが、一見パラドキシカルではあるけれども最も有効な方策ではないか、という意見が実体験に基づいて話され、参加者一同もこれに深く賛同し散会となりました。

第1回対話塾
2012年1月14日(土)

2nd Seasonの第一回目として行われた今回の対話塾は、「自殺」という問題を倫理的に価値判断することには問題があるのではないか?という問いかけに始まり、「死にたい」という人に私たちはどう関わることができるかということから、「死にたい」という言葉の背後に読み取られるべき「生きたい」という思いの問題が指摘されました。また、生物は基本的に生きようとする方向に進むものだが、アポトーシス(立ち枯れ壊死)というものもある。それと、人間の「自殺」はどんな関係にあるのか?といった議論も行われました。後半は、民主主義と多数決原理は同じではないということや、自分で物事を考えずにプロパガンダに流されるような人たちが多数を形成することが多いのではないかという指摘が成され、鈍感で強欲な人間が生き残りやすいような社会の在り方で良いのかという話も出て、感情や感性が摩耗しなかったがゆえに誠実に矛盾を悩むことになった人々が「弱い者」とみなされ淘汰されてしまうような世の中であってはならないだろう、という意見が熱い共感を呼び、締めくくられました。


1st Season (Trial Season)

第5回対話塾

2011年12月17日(土)

トライアルシーズン最後の第5回対話塾は、「美しさとは何か?」という問題提起に始まりました。「美」の背景には何らかの秩序が存在するのではないかという意見と、「美」はひとりひとり異なる感性を持っているために共有が難しいのではないかという意見が提起され、ユングの言う「集合無意識」やJ.キャンベルの神話の原型の話、音楽や小説における感動を呼ぶ構造原理の話につながり、泉谷の言う「地下水脈」の話題に発展。そして、個性というものと普遍性というものの関係について考え、「一人称」と「超越的0人称」の関係、そして「十牛図」の話にまで対話は及びました。

第4回対話塾
2011年11月12日(土)

第4回の対話塾は、納得できる人生上の選択をするためにはどうしたら良いか?という問いかけに始まり、「頭」と「心」の問題、さらに「頭」にも自己束縛的なものと「心」の代理人的なものと2種類あるのではないかという内容に発展し、また、「間違った選択」であったと過去を後悔することは「頭」のシミュレーション機能の驕りではないかということ、全てを運命として受け入れる捉え方についてや、「正しい選択」というものは果たしてあると言えるのか、選択の正否ではなく選択すること自体に「経験」としての意味があるのではないか、等々が話し合われました。

第3回対話塾
2011年10月22日(土)

第3回の対話塾は、「生き延びる」という言葉が最近よく用いられるようになっているのは何故だろうか?という問題提起に始まり、世間が一般的に「安全」や「安定」(雇用不安の解消・経済的安定・身体的安全等)を求めるのに対し、われわれが求めるものは「主体的」に生きることや「経験」の可能な生き方なのではないか、と発展。さらに、「経験」の身体性の問題、そして男女における身体性の違い、また「質的」価値を「量的」価値に落とし込んでしまう貨幣経済の中で、いかに「質的」価値を尊重し得るか、といったテーマに深まって行きました。

第2回対話塾
2011年10月1日(土)

第2回の対話塾は、「自信」とは?というテーマについて話し合われ、日本の教育において生み出されてしまう受動性の問題、合気道で言われる「守・破・離」について、「習う」より「盗む」が望ましいのではないか、といった話題へと展開し、今回も活発な対話が行われました。

第1回対話塾
2011年9月10日(土)

第1回の対話塾は、「対話」がいかにして可能なのか? という問いかけに始まり、「自分自身との対話」、「頭」と「心」の対話、「頭」の中の対話、自己肯定はどうやったらできるのか、などのテーマを話し合いました。問題意識を参加者全員が共有して活発に行われた対話は予想をはるかに超えた十分な手応えの感じられるものでした。

【泉谷セミナー事務局】
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