2016年4月16日(土) ひきこもりUXフェス @大田区産業プラザPiO ひきこもりUX会議主催
トークステージ 泉谷閑示「生存戦略 × 生きづらさをどうする」
聴き手:林恭子さん(ひきこもりUX会議)


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林恭子(以下 林)

「生きづらさをどうする」というテーマですが、
私が不登校・ひきこもりの活動に関わる中で
よく出る話の一つとして、自己肯定感が持てない、
失われているということがあります。

私自身も不登校の時、またひきこもっている時 、
本当の自分はちゃんと自分の道を行きたいのだけど、
でもやはり“大通り”、「普通」と言われる道に
戻らなきゃいけないっていう気持ちで
長く苦しんだ経験があります。
泉谷閑示さんは、だいぶ以前になりますが、
私の主治医で大変お世話になった先生なんですね。

先生とカウンセリングをしていく中で、
私の「普通」に戻りたいと思う気持ちを、
「そっちじゃないんじゃないの?」と
ずっと言っていただいていたような気がしています。
そこに何か自分らしさ、イコール自己肯定感を
取り戻すヒントがあるのかなと思うのですが、
先生いかがでしょうか?



「自己否定してる猫」とか見たことありますか?


泉谷閑示(以下 泉谷)

肯定や否定といった
マルかバツかみたいな考え方を、
「二元論」といいます。
こういうのが正しいですよとマルを決めちゃうと
そうでない人は全部バツになってしまう。
でも自然界を考えてみると、
動物や植物の世界に肯定とか否定というのがあるのか。
そういう区別は人間だけが頭でやることなんですね。

「自己否定してる猫」とか見たことありますか?
ないわけですよ。
自己否定する雑草とかないわけですよね。


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だから僕は自己肯定感をどうやって持てるようにするか、
ということを言うんじゃなくて、
否定と肯定に分けることがおかしくないか?
ということを説明して、
その辺のモヤモヤをはずしていってもらう。
そういうお手伝いをすることがあります。



“大通り”がおかしいということに気がついてほしい


泉谷       

林さんは僕のところで
「普通に戻らなきゃいけないけど戻れない」
と悩んでいたんです。

そこで、僕はその時に「そっちに(自分の道)行けよ」、
と言ったんです。で、そっちに行ったら、
今ここでこういうこと(UXフェス)をやってるんです。




でも先生、そっちに行くのはすごく怖かったです。


泉谷       

怖かったけど、でもどうですか、今?


林        

いまはすごく行ってよかったと思ってますけど…
でも、“大通り”(=普通)にはなんとなく
「こういう人たち」っていうイメージがあるけど、
こっちはまったくモデルがなかったから
何をどう生きていっていいのか分からなかった…。


泉谷      

モデルなんか邪魔でしょう?
家にいれば親だったり学校行けば先生とか、常識とか
道徳を説くモデルはいくらでもいるじゃないですか。
そういうのでいいと思った人たちは、悩んでないんですよ。
ちょっと過激なことを言うと、
そういう人はあまり「才能がない」の。


林        (笑)


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泉谷       

学校の先生や自分の親を見て
疑問を感じないようだったら、あまり才能がないから、
僕はそういう人に余計なことは言いません。
でもそこで疑問を感じた才能のある人たちに、僕は、
あなたたちがおかしいんじゃないよ、
“大通り”がおかしいんだよということに
気が付いてほしいんです。

人がぞろぞろ同じ方向を向いて、
同じペースで進んでいくって、
生き物として気持ち悪いですよ。

みなさんの顔かたちだって、性格だって、
素質だって才能だってみんな違うのに、
何歳だったら何しなきゃいけない、とか、
30までに結婚しないの?とか、おかしいわけです。

そういう一律の“大通り”が、実は
人為的に作られたものだということです。
だからこれに合わせることが健康なのではありません。
むしろ一人一人が違うペースで
違う方向に進んでいきたいと思うことが
自然なわけです。

だから怖いのは、“大通り”というのが
まともで安全なところだ、という錯覚ですね。
あるいは洗脳されてるわけですよ、私たちは。
だからそこを外せば、ちっとも怖いことじゃなくて自然なことなんです。
自然にやったらこんなに
アクティブな林さんになったじゃないですか。


林        

そうですね。
今の方がよっぽど自分でいることに
気持ちが楽だしとは思います。



「働く」を一つの言葉で考えるから、訳が分からなくなる




不登校やひきこもりの当事者の方たちは、
家にいながら「働くってどういうことなんだろう」とか、
生と死とか、そういうことを本当に真剣に
考えていると思うんですね。

でも親御さんや支援者の方など周りの方は、
「とりあえず働け」とか
「考えるのはいいから、とりあえず働こうよ」
と行きがちなんですよね。
支援もどうしても就労支援に行きがちになる。

どうしてもそこにギャップが起きてしまって、
当事者は気持ちを分かってもらえないと思うし、
周りはよく分からないと思うし。
「とりあえず働け」ってなんだろ、と思うんですけど。


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泉谷

「働く」っていう一つの言葉で考えるから
訳が分からなくなっているということが
今、次の本を執筆していてだんだんと見えてきたんです。

ナチスのユダヤ人迫害にもあった
ハンナ・アーレントという女性の哲学者がいて、
この人が「働く」ということについて
非常に掘り下げて考えてくれていたので、
大変「働く」を考えるのに役立ちました。

英語で言うとLabor、日本語に訳すと労働。
そしてWork=仕事。そしてAction=活動、
こういうものを全部ひっくるめて
「働く」と私たちは言っちゃっているんです。

日々のお金を稼いだり、
食べ物を採ってきたりというような作業は、
Labor(労働)なんですね。

ところが人間というのは、ただお金を稼げて食べられて、
着るものがあって住むところがあって、見かけ上
家族があることだけで生きていける存在ではないんです。
人間というのは、「意味」が感じられないと
生きてることをやめたくなる生き物なんですよ。



「意味」と「意義」を分けて考える


泉谷

「意味」と「意義」を
分けて考えた方がいいと思うんです。

小学校以降、口が酸っぱくなるほど、
「有意義な時間の過ごし方をしましょう」なんて
ずっと言われながら私たちは育ってきているんです。

通勤時間も英語の勉強をしましょうとか、新聞を読んで
時代の流れにキャッチアップしましょうとか、
私たちは常に価値を生み出さなきゃいけないと、
思い込まされているんですよ。

たいがいの動物っていうのは、ほとんど寝てるわけです。
1日24時間のうち20時間くらいは寝ていて、
のこり4時間くらいはだいたい物を食べています。

私たちは、動物の端くれでもある。
だけど人間には「頭」というものがあるものだから、
なにか意味のあること、
「これ楽しかったな」とかね、充実感とか、
そういうようなことを大事に思うんですよ。

そういうものを感じられるのは
「仕事」とか「活動」の方なんです。
「つべこべ言わずに働け」っていう人たちは、
ほとんど「労働」をやっている人たち。

働くことに踏み出せない人は、
ここになにか疑問を感じてるような気がする。
「そこまでするんだったら生きていたくない」
くらいに思ってる人も少なくないんじゃないか。
つまり、人間として生きる「意味」を感じたい、ということ。

だけど、学校にしたって親にしたって、
社会は「意義」ばっかり求める。
そのことにすごく引っ掛かりを感じている人たちは、
場合によってはひきこもらざるを得なかったり、
あるいは転職を重ねざるを得なかったり
するんだろうと僕は考えます。
だからこの辺をごっちゃにしてはいけない。


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人間はもっと人間らしいことを


泉谷

古代ギリシャとか、ああいう時代には、
「労働」は死ぬより悪いことだと考えられていたんですよ。
どうして奴隷制というのをやったのか。
戦争で打ち負かした相手の国の人たちを
みんな奴隷にして「労働」をさせるためです。

今の時代、ITの技術とか様々なものが発達して、
せっかく「労働」をやってくれる機械を
頑張って作ったのに、これに振り回されて、
労働時間はどんどん長くなっているわけでしょ?
システムがうまくいかないからって
休日も呼び出されたりして。

この機械化、情報化、IT 化で、本当は
「労働」を担ってもらって、人間はもっと人間らしいこと、
Action(活動)へ移り変わっていったらいいんだろうと
思うんだけど、「労働」ばっかり増えてます。

ある方は車が大好きで自動車メーカーに入って、
設計とかをやっているんだけど、なんの車の、
前輪に使うのか、後輪に使うのか分からない
データだけ降りて来て「これで設計しろ」と言われる。

こんなことをやって仕事をした感じはしないですよ。
ただの歯車で、取り換え可能でしょ?
そんな人間らしくないことの方が増えてきている。




でも「家族を養うために会社辞められないんだ」とか
「我慢して我慢して定年まで働くことがえらいんだ」
という人も結構いますよね。


泉谷

そうですか。
まぁ好きにすればいいです。


〈会場〉 (笑)




そうですね(笑)。


泉谷

だって家族を作ったのは本人の勝手でしょう。
勝手に作っといて「誰のおかげで飯食ってんだ」って。
そしたらね、「産んでくれって頼んだ覚えはない」って。
言っていいんですよ。そうでしょ?



役に立つということを一番の目標にするのは大間違い




最近ちょっと気になってることがあります。
若い世代の方に多いような気がするんですが、
誰かの役に立ちたい、人の役に立ちたいということを
おっしゃる方がいるなと思っていて。

それがあんまり強まると、
人の役に立たない自分は生きてちゃいけない、
誰の役にも立ってないから死んだ方がいいっていう話を
非常に多く聞くようになった気がするんですね。
働いてない人間は生きる価値がないみたいな、
そういうふうに行き過ぎるのも
怖いなと思うんですがどうでしょうか。


泉谷

最近、こんな風に考えるようになったんです。
「価値」っていう考えをやめようじゃないかと。

価値があるんだったら生きてていいとか、
価値がないんだから死んだ方がいいとか、
それ、おかしくないか。
私たちは商品でも労働マシーンでもない。

植物で例えると、立派なバラだったら
1本1,000円で売れるかもしれない。
ユリの花も売れるかもしれない。
だけど、名もない雑草と呼ばれてるものは
値段がつかないかもしれない。
でもそれは市場経済とか社会というものが、勝手に
価値がある、価値がないと決めてるわけです。

また例えば詩。
詩だけで生活ができるっていう人は多分
日本で谷川俊太郎さん一人でしょう。
あとは大学の先生をやったり公務員をやったり、
あるいは主婦をしながら詩をつくって、
ほとんどの場合自腹をきって
自費出版で詩集を出してるんですよ。
なので詩というものは、今の我々の社会では
市場価値はありません、って言われてるわけですね。

でも、どうですか? 詩には価値がないんでしょうか?
僕はものすごくあると思います。
でもその価値っていうことを考えた時に、
どうしても今の世の中、値段がつく、
つかないってことに引っ張られちゃってるわけです。


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役に立つとか立たないということに捉われたり、
市場価値に捉われること自体が、
ちょっと違うんじゃないかな?
そういうことが言えると思います。

僕は人の役に立つということは大事だと思うけれど、
これを一番の目標にするのは大間違いだと思うんです。



余ったやつは見返りを期待しない


泉谷

一番にすべきはさきほど言った
自分自身が「意味」を感じられるように生きること。

例えば良い包丁を作ることに意味を感じられる人が
結果として包丁を作った。
またピアノを弾く人が、自分が生きる意味を
感じられるからとピアノを弾いた、
それを誰かが聴いてすごく救われたり、
役に立ったりということが、二次的に起こる。

この順番が逆になるから
みんな苦しむんじゃないかと思います。
日本の教育では「人の役に立つ人になりましょう」とか
「人の気持ちを汲み取れる人になりましょう」
とは教わるんだけど、
「自分を大事にしましょう」とは一度も教わらない。

自分を大事にして、余った部分で
人のために何かをするのは大いに結構。
なぜなら、余ったやつは見返りを期待しないんですよ。
どうだ、すごいだろうとか、
買ってあげたんだから感謝しろとか、
そういうものは余ったものにはないの。

だけど自分がやせ我慢をして、
自分が食べたいのに人にあげて
「こんなもの」なんて言われたらもう、
頭にきちゃってしょうがないでしょ?

でも自分がおなか一杯で
「良かったら誰かお好きな人食べてください」
だったら感謝されようがされまいが、いいんですよ。
だからその順番を間違っちゃいかんのですよ。

相田みつをさんの言葉で、
一つ大変気に入ってるのがありまして、
「人の為と書いて いつわり と読むんだねぇ」
という言葉があるんです。
だからね、やられた方も迷惑なんです。



まずは「イヤ」なことから




さっきのお話とつながると思うんですけれども、
包丁を作ったり、それが生きがいだと思っていて、
そういうのがある人っていいなって思うんです。

でも好きなことがないとか、好きなことが分からない、
感じられないっていう人が非常に多いと思うんです。


泉谷

実はその前に考えなきゃいけないことがあるんです。
それは嫌いなこととかやりたくないこと、
こっちを先に自分の中でハッキリさせない限り、
”好きなこと”は絶対出てこないことになってます。

否定が先です。「イヤ」が先なんです。
生き物って、そうできてるんですよ。

人間でも赤ちゃんが育っていくところを
見ていると分かるんですけど、だいたい2~3歳頃に
「イヤイヤ期」というのがあります。

これ食べなさいって言っても「イヤ」、
じゃ食べなくていいっていうと「イヤ」、
寝なさいって言うと「イヤ」、
寝るなっていうと「イヤ」って言うんですよ。

じゃどっちなの!?って
ヒステリーを起こすお母さんがいるわけだけど、
あれは何かを「指図されたことがイヤ」なんですよ。
僕も自分の娘がそういう時にちょっと遊んでみまして、
寝てもらおうと思って「寝ちゃだめだぞ」って言ったんですよ。
そしたら「寝るー」って言って寝てくれましたよ。

つまり、こういう「NO!」っていうことが
生き物として最初の自己表現、自分の意志の表明なんです。
ここのところをつぶされちゃいますと、
心が丸ごと動かなくなるし、声を上げてくれなくなるから、
好きなことは出てこないに決まってるんです。

だけどこういうこと言うと、わがままだとか、
好き嫌い言うんじゃないとか、不真面目だとか、
いろいろ叱られちゃうわけです。

だけど、もう一度「嫌い」を自分の中でちゃんと、
イヤだって自分の心は言ってる、ということくらいは
分かるようにしておかなくちゃいけない。
みんな頭の声ばっかりで心の声を封じちゃってる。
心は、封じてる蓋を開けると、
最初何を言うかっていうと、
ヤダーとかキライーとか死ねーとか言うんですよ。


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それを怖がってみんなすぐ蓋をしちゃう。
そうじゃなくてそこをまず自分の中で聴く。

自分の中でちゃんと聴いて
「そうだよなぁ、これはイヤだよなぁ」とか、
「これはつまんないよなぁ、ピンとこないよなぁ」
っていうことがたくさんある。
そこをちゃんと動かしていったら
だんだん「好き」も動いてくるようになる。
こういう順番になってます。




でも、やっぱり心の声が出てくるのって怖いんですよね。
そんなこと認めちゃったら
今の生活が崩れるかもしれないとか、
誰かとの関係が壊れるかもしれないとか、
やっぱり蓋しちゃいたくなると思うんですよね。
どうやって一人でそれをやったらいいのか…。


泉谷

もちろんそういうことはありますね。でもそれは
「壊れるべきものが壊れた」のではないでしょうか。

むしろ本物の関係とか、本物の繋がりというものは、
本当の自分になった時に、よりハッキリ強く繋がります。
そこで切れていくものは、気を遣っているから成り立っていたり、
利害関係だけでギリギリ表面でつながっていたような
薄っぺらな関係なんで、いっそなくなったほうが
前よりはるかに生きやすいと思いますがどうでしょう?




もう、おっしゃる通りだなぁと思うんですけど、
やっぱり、そこに一歩踏み出すというか、
覚悟してそれをやろうとするのは、
結構怖いんじゃないかなと思うんですけど。


泉谷

うん、だから僕のところに来れば
僕がけしかけますから(笑)。



独りで戦う時に支えになるもの




そうなんです、先生のように伴走してくれる
誰かがいてくれたらいいなと思うんですけど、
たいていの人はそういうことと
独りで戦わなくちゃいけないから、
そういう時に支えになるものとか、
応援してくれる何かがあるといいと思うんですけど。


泉谷

そういうふうに生きた人の言葉とか、
そうやって生きてきた人の残した作品とか、
あるいは僭越ですけど僕の本とかはお役に立つと思います。
みんな自分の心に正直になったから、
そういう作品を残せたんですよ。
“大通り”をなんとなく周りを見ながら、
おっかなびっくり生きた人たちは何も残してないです。

そういう心細いことは、僕にもたくさんありました。
自分だけ狂っちゃったんじゃないかなとか
思ったこともあります。

だけどそういう時に本屋さんに行ったりして、
ゲーテさんでもいいパスカルさんでもいい、
あるいはさっき言った「詩」ね、
詩人なんてお金にならないことやってるんだから
相当「イイ感じ」なわけです。

「あ、自分と同じことを感じたり、
同じことを考えて苦労している人がちゃんといたし、
そういう人の作品が残ってるじゃないか」と。
こんなに勇気づけられることはないと思います。




“大通り”を進むのは「死体が動いている」のと同じ




さっきの“大通り”からはずれていくお話ですが、
はずれて確かに私は今日ここにいるんですが、
でも昔、それこそ先生のところにかかっていた頃は
本当にこうやってイベントを企画するとか
人前で喋るなんていうことは
とても想像ができなかったです。

でもここに立っちゃってると、当事者の方から
「それは林さんだからできたんじゃない」とか
「私にはそんなの無理」というようなことを
言われることがあるんです。
なんで私は「そっち」に行けたんでしょうか?


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泉谷

「 “大通り”に残って自分らしくなく
生きるくらいなら死んだ方がマシだ」
と思ってるからなんですよ。
そうだったでしょ?




ええと、そうだと思うんですよ、
でもその時はそうは思えない。
どっかでは思ってたんでしょうけど。


泉谷

生きるというのは
“大通り”を進むことではありません。

“大通り”を進むのは
「死体が動いている」のと同じなんです。
生きるというのは自分にしかない
道なき道を進んでいくことなんですよ。

人がいるから安心するとか、
いないからどうっていうようなことは、
本当に日本人の悪い癖だと思う。
いいんです、そんなものはどうだって。

自分が人生最後の瞬間に
「あぁ面白かった」って終えられたら
それでいいんですよ。

僕が大好きな思想家の鶴見俊輔さんは、
ちょっと前にお亡くなりになっちゃったけれど、
べ平連とか戦争反対の平和運動とか
いろいろやってた人ですけど、この人は3回ウツをやってます。
でもそこから抜けて。

この人の言葉で
「俺は善人なんて言われたくも思われたくもない」
というのがある。
「悪人で結構、善人は弱い。俺は一生悪人で結構だ」
という言葉をちゃんと本に残してるんですよ。

自分らしく生きるということは、
人からどう思われるとかは関係ないことです、本当は。
たとえノーベル賞をもらって世界中から尊敬されたとしても、
川端康成みたいに自殺してしまう人もいるわけです。

人からどう思われるかということを
いくらかき集めても、自分を助けてはくれないんです。
大事なのは自分で自分の生き方にちゃんと満足してること、
納得してることなんです。
そこを間違っちゃいけないと思う。


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原始時代を思うと楽になる




最後なんですけど、
私が泉谷先生にお世話になっていた時によく
「原始時代のことを考えたらいいよ」
っていうことをおっしゃっていたんですね。

原始時代の人はどうしてたかなと思うと、
自分がいま苦しいと思っている大抵のことが、
やっぱなんか変だな、こっちの方がおかしいな、
原始時代の人なら誰もそんなこと
やってなかっただろうなとよく思ったんですね。
そのことを思うとちょっと楽になるんですよ。



私たちは、フッとこの世に現れて、そして消えていく


泉谷

「カメラを引く」ということを
僕はおすすめしたいと思います。

みんなカメラをクローズアップして
現実に近いところを見て、
会社どうしようとか出世できなかったとか、
学校行けないとか試験に落ちたとか、
恋人できないとか結婚できないとか言いますが、
これをグーッと引いて見るわけです。

カメラの引き方にはいろいろありまして、
林さんが言われたように、
時間的に過去の方にグーッと引いていくと、原始時代の
腰巻一丁でたき火して暮らしてた時代とかにも行ける。

グーっと空高くどんどん引いていきますと、
地球が点になり見えなくなって、そうすると
宇宙全体で点にもならない地球の上で、
さらに点にもならないような日本の中で
隣と比べてどうとか言ってるわけ。
そういう意味では実にバカバカしいことをやっている。

時間的なもので見たら
宇宙の何十億年とかいう時間の中で、
せいぜい生きたって100年前後、
これは、点にもならない。
そういう時間の中でフッとこの世に現れて、
そして消えてくわけでしょ。



“立派”ではなくて、“あぁ面白かったな”


泉谷

絶対全員死ぬんですから、私も含めて。
永遠に生きた人は一人もいなかったわけです。
だから、このわずかな時間の中で、
好きにやってごらんなさいって。
「あぁ楽しかった」って言って
また消えてったらいいんだと思うんですよ。

立派だったなんて思ったって
最後の瞬間に多分つまんないと思う。
立派なんじゃなくて、「あぁ面白かったな」と。
いろんなことやったし、いろんなもの食べたし
いろんなもの見たし、いろんな人と知り合いになって
面白かったな、それでいいんだと思います。

結果としてね、何が残るか残らないか、
それは僕はいいと思う、土に還るわけだから。
そう思います。




私も、味わえばいいのかなと思うようになりました。


泉谷

そうそうそう。
だから「意味」の「味」って「味わう」なんですよ。




あぁ! そうか。


泉谷

意「義」じゃないんです、意「味」なんです。
だから、いろんなことを味わう。

僕は料理が大好きなんだけど、サワラがどうとか
クレソンとかなんでもいいけど、楽しんで、
やっぱり春の旬のものは美味しいなって食べる、
そしたら今死んでも「ま、いっか」と思えるわけです。

だからいつでも、明日死んでもいいように生きられたら、
私たち一番いいんじゃないかと思う。

昔のラテン語で「メメント・モリ」、
「死を思え、死を忘れるな」という意味です。
私たちは限りのある生を生きてるわけだから、
そこから照らし返してみた時に
「明日死ねるように今日を生きてますか」
と問われるわけです。


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いつか就職したらとか、
結婚したらとか子供ができたらとか、
子供がいい学校入ったら、
それから生きましょうか……なんて言ったって
その前に終わっちゃったりするわけです。

欲張ったことをしろって言ってるんじゃないんです。
今日ギョーザを1個食べて
「あぁ、ギョーザってうまいなぁ」
と思うだけでいいんですよ。そういうことです。




今日は本当にありがとうございました。